要旨(今回は少々長いので)
- 江戸時代には麻疹(はしか)が一定の間隔で蔓延して数多くの感染者と死亡者が出た。
- 文久2年に麻疹が蔓延した際には人気のメディアとして「はしか絵」と呼ばれる錦絵が出回った。
- 当時は麻疹が流行する度に「まじない」としてタラヨウの葉に呪文のような歌が書き込まれた。
江戸時代のまじない
世界で猛威を奮っているCOVID-19の感染収束への願いを込めて、国内では江戸時代のアマビエのスケッチやグッズが人気のようですね。
アマビエが描かれたのは江戸時代の弘化3(1846)年ですが、その16年後の文久2(1862)年には麻疹(ましん、はしか)の大流行があり、江戸だけで約7万6千人が亡くなったとも言われています。
文久2年の麻疹は特に被害が大きく、社会不安から麻疹騒動も発生したようで感染症対策のメディア(情報媒体)として「はしか絵」と呼ばれる錦絵が飛ぶように売れました。
今回は製薬会社のエーザイ株式会社の創業者である内藤豊次が開設した「内藤記念くすり博物館」(岐阜県各務原市)が出版した『はやり病の錦絵』を確認する機会があったのでご紹介します。
「はしか絵」には麻疹の予防法や感染してしまった際の食事、さらには過去の流行年表まで説明されていたり、中には貼っておくだけで効果があるとされるようなもの(!)まであります。
テレビもインターネットもない時代において、玉石混交ながら様々なコンテンツが豊富に掲載されており、さらに視覚的にも色鮮やかで面白いのでヒットしたのも頷けます。
麻疹にはタラヨウ?
現代よりも寿命が短かった当時、20年から30年の長い間隔で流行する麻疹への治療経験を積んだ医師も少なく、子どもだけでなく30歳くらいまでの大人も感染し命を落とすこともあったので「命定め」とも呼ばれていました。
「はしか絵」の中で特に麻疹に感染した時に症状を軽くするための対策として多用されていたのが、なんとタラヨウ(多羅葉)の葉っぱです。
タラヨウの肉厚の葉は炙ったり裏側に傷をつけると墨で書いたように変色するのでジカキバ、エカキバとも呼ばれる常緑の照葉樹ですが、当時は「まじない」を書くのに利用されました(アオキも黒くなります)。
(余談ですが、タラヨウは切手を貼れば葉書として使えるので、宛先までは憶えていませんが筆者も幼少の頃に一度だけ送ったような記憶もあります。)
書籍には様々な「はしか絵」が紹介されており、多くは下記のような歌を書いて川に流せば麻疹の症状が軽くなるように書かれています。
麦殿は 生れながらに 麻疹して かせたる後は 我が身なりけり
大人よりも子どもが感染したためか絵によっては下記のような歌が記されたものや、子どもの名前と年齢を書いて流すとか、特定の3ヶ所に線香で穴をあけて流すとか、さらには歌は書かずに軒に吊るすなど、いくつかのバリエーションがありました。
むぎどのは 生れぬさきに はしかして かせての後は わが子なりけり
さらに、タラヨウは数が少ないので葉が手に入らない場合には「はしか絵」や紙を葉のかたちに切って使うように書いているものもあります。
いくつかの錦絵は博物館の公式サイトでも紹介されているのでご覧ください。
しかしながら、タラヨウに呪文のような「まじない」の歌を書くようにしたのはなぜなのでしょうかね。
麻疹という名前は、症状が喉を麦や米の芒(先端の先の部分)で擦ったようにイガイガするということに由来し、むず痒いことを差す関西弁の「はしかい」がはしかになったという説が有力です。
「麦殿」は麻疹退散にご利益のある神様だったようで、麦の葉自体を麻疹退治のまじないに使うように勧める絵もありました。
川に流すという行為は麻疹の神を送る(=治る)という意味があり、「はしか絵」よりも前に作成された「疱瘡絵」はお見舞いとして贈られ後に穢れを託して川に流す風習があったので同じ儀礼的な演出なのでしょう。
タラヨウ(多羅葉)という樹種名は、インドで経文を写すのに用いられたバイタラ(貝多羅樹)というシュロ科の植物になぞらえて付けられているので、お経の類を書くのは不自然ではないのかもしれません。
「はしか絵」の多くは、麻疹が流行した文政7(1824)年に刊行された一般向けの麻疹養生書『麻疹必用』(葛飾蘆菴撰)の内容を簡易にしたと推測されており、タラヨウ の葉の右側に下記のような歌を書いて左側の余白には書いた人の年齢と名前を書いて身体中を撫でてから川に流すと症状が軽くなると記されています。
むぎどのハ 生れたままに はしかして かせての後ハ わが身なりけり
さらに21年さかのぼった享和3(1803)年の流行期には式亭三馬が滑稽本『麻疹戯言』を執筆しており、タラヨウの葉がまじない用として売られていたこと、麦殿の歌が28年前(1775年)の流行時に既に一般的だったこと、タラヨウの葉が不足したことが記されています。
以上のように江戸時代には麻疹が流行するたびに麦殿のまじないが流行し、歌とまじないのやり方は徐々にアレンジされていることがわかります。
当時は既に生涯に一度罹れば再び感染することはないと知られていたので、歌を強引に読み解くとすれば、麦殿様は既に麻疹に罹っているので麦殿様の化身である私(または我が子)は感染してもあまり症状は出ませんよ、という意味だったのでしょう。
現代のまじない
冒頭の写真で紹介した書籍の表紙の絵は麻疹の流行によって売り上げが下がった業種の人たちが麻疹神(酒呑童子)を懲らしめている様子を風刺画として描いた「はしか絵」です。
COVID-19の感染拡大防止のための緊急事態宣言や営業自粛・外出自粛の要請に伴って地域経済が大打撃を受けていますが、感染症の蔓延によって市場経済が混乱するのは今も昔も変わりないことのようです。
文久2年の「はしか絵」をビジネスモデルの目線で見ると、心の拠り所ともなる有益な情報を盛り込んだ彩色木版刷の錦絵を安価に大量に刷ることで儲けたということだったようですね。
江戸時代の浮世絵師で最も大きな流派だった歌川派の門人の多くが錦絵を描いていたようで、麻疹関連の売り上げも相当なものだったと推測されます。
麻疹発生の4月に一斉に印刷されているにも関わらず、歌の内容や使い方に違いがあるのは版元(発行人)が話題性を持たせるために工夫を凝らしたのだろうと推測されます。
実際の効果のないまじないを売るのは現代から見ると詐欺のようにも思えますが、「はしか絵」にもまじないと確と書かれており、神様に願いが叶うよう祈る行為は現代の初詣や御守りと変わりありません(初詣は鉄道会社の発案だとか)。
何れにしても、「はしか絵」などの錦絵は現在でも古書店などで販売されていますが、選ぶ楽しさはインターネット動画を見るに勝るとも劣らないワクワク感を提供するメディアだったことでしょう。
弊社では上記の麻疹とはしか絵が流行した2年後の文久4(1864)年に建てられた古民家を管理しており、敷地内には写真のようなタラヨウも植えられています。
上記のように寺院境内に植えられることの多かったタラヨウが麻疹対策として植えられたのかどうかは定かではありませんが、コロナ禍に偶然に出会った「はしか絵」のタラヨウまじないは面白い発見でした。
麻疹もワクチンで予防できるようになった現代ではまじないは必要ありませんが、折角の機会なので当時を偲んで幾通りかの作法で歌を書いてみました(アマビエも一緒に)。
先のエーザイさんも治療薬やワクチンの開発に取り組まれていますが、1日も早く製品が完成して一人でも多くの命を救えるように祈るばかりです。
北海道と首都圏4都県に発令されている緊急事態宣言もまもなく解除されるようですが、第2波が発生しないように注意して日常生活を送りましょう。